水曜日, 12月 02, 2009

分かれ道



フィルムからデジタル
スチルから、ムービー

これは大きく異なる話。優れたものが、劣ったものを駆逐する。経済性という点まで加味すれば、フィルムからデジタルへの変化はそのものだ。
味という点を除いて今フィルムで制作する意味はないと思っている。ハイエンドを求めるからこそデジタルという選択肢も当たり前だ。

これに対してスチルからムービーではなく、スチルの感性を活かしてムービーを作れば新たな表現が加わると思うし、EOS 5Dのようにフルサイズのボケを活かした絵作りは新鮮だ。

今、ムービーで仕事の幅は広がる、これはYESだし、取り組みたいとも思う。ただ諸手をあげて一眼デジカメでムービーが答えだとは思わない。

制作の全行程を知るものにとって根本的なものが欠けている一眼デジカメでムービーを作る気にならないのだ。

なにがと言って、驚くのは、タイムコードの観念がないムービー素材をプロが扱うこと。これは制作工程全体を揺るがすことであり、またしてもお手軽さがプロの生きる道を奪うようなことになると感じるのだ。

デジタル化で誰もがカメラマンになった。これは素晴らしいことで、ある面からすればクォリティーアップだとも思っている。たとえば通販でわかりやすい写真が欲しいと思ったときにカメラマンの知識より、当然その商品を売っている人のほうが商品知識を持っている。であれば、写真という技術をカメラがカバーしてくれて、より商品知識に基づいた写真が撮られるのであれば、写真のプロの出る幕はない。真のクォリティーアップだろう。

だが、印刷の特性であったり、正しいカラーマネージメントまで言い出せばプロの必要性はあるのだ。これと同じようにムービーでも外せない一線があると思っている。

それは編集という作業まで含めたタイムコードに基づいた作業だ。
ムービーの撮影、ライブであとから合わせるのであれば、絶対時間で進むフリーランによるタイムコードを付加するし、こまかに作り込むものを作るのであれば、レックランでタイムコードで撮影を始める。

ごくごく当たり前のこと。それがムービーのワークフローだし、スタートの構想、絵コンテでもある。

しかし、一眼デジカメのムービーにはタイムコードという観念がない。まるで、編集という行程に流すことを考慮していない運動会ムービー用だ。

フルHDもいいが、せめてフリーラン、レックランのタイムコードをサポートするべきだろう。しばし、私はスチルで一瞬を切り取る作業に専念しよう。

まだまだ中途半端だし、無理にできるからやるではなく、制作全体としてメリットが大きいとわかるまでは。

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